【チェ・ボシクの言論=イ・ビョンチョル論説委員】
普段の歩幅はやや速めだと言える。しかし、足を痛めてから二か月が過ぎ、リハビリを兼ねてゆっくり歩く練習をしていると、この歩速は音楽のテンポで言えばアダージョ(Adagio)に当たるのか、それともそれより遅いテンポと呼ぶべきか、と考えるようになる。
調べると、アダージョより遅いテンポが「ラルゴ(Largo)」とされるらしい。音楽に詳しくない身には、こうした用語に触れるのも新鮮だ。
アダージョが「ゆっくり、非常に遅く」で、アンダンテより落ち着いた状態を指すなら、ラルゴは「極めて遅く」かつ「幅広く、壮大に」という含意があるという説明だ。国楽のテンポでいえば、最も遅い진양조(チンヤンジョ)に相当するだろう。
ともあれ、昨日からアダージョとラルゴの間のテンポで村の道をゆっくり歩きながら、花に出会い、隣人と顔を合わせている。
こんなにゆっくり、あるいは遅く歩いたのはいつ以来だろうか。行禅とも呼ばれる歩行瞑想を練習していた時を除けば、日常でここまでゆっくり歩くことはほとんどなかった。大概の距離は車で移動し、散歩でもたいてい早足になる。日常の風景を写真に収め始めてから歩みは少し遅くなったが、反面、撮影で遅れを取り戻すために早く歩く場面も増えた。
一緒に出かけて写真を撮っていると遅れをとることがあり、その際は追いつこうとさらに速く歩く必要がある。しかし今は仕方なく、ゆっくりとごく遅い足取りで一歩ずつ進んでいる。
ゆっくり歩くことは瞑想の有効な一形態だが、日常でそれを実践するのは容易ではない。ゆっくり歩くことやじっとしていること自体が、速度に慣れた現代人には不安をもたらすからだ。
これが現代人の不安心理を端的に示すのかもしれない。ひとりでいることができず、じっとしていられない。揺れる電車の中でもスマホから目を離せないのがその典型例だ。
仕方なく、まるで歩き方を再び練習しているかのような速度で一歩ずつ進むと、自然と目に留まるものに気づく。車で通り過ぎる時や早足で通り過ぎる時には見落としていたものが、遅さの中でようやく姿を現し、自分の前に現れるのだ。
こうしてゆっくり歩きながら出会うことを「新たに出会う」と呼んでもいい。速く通り過ぎた時には存在しなかったものが、ゆっくりとした歩みによって新しく現れるのだ。もしかすると、それは別の世界との出会いでもある。速い速度で通り過ぎる世界とは異なる世界が、そこにはある。
速さを追い求める間に、私たちが見落とし失ってきた世界を考える。世界の豊かさは速さにあるのではなく、遅い歩みの中で味わえるのではないか。ゆっくり歩くほど世界が豊かになることを証明するような物理法則はないだろうか。時間の相対性理論も、どこかでこれと関係しているのかもしれない。
「時間泥棒」とも呼ばれるミヒャエル・エンデの小説『モモ』を思い出す。だいぶ前に読んだので細部は覚えていないが、メッセージだけがぼんやりと残っていて確認してみた。
この本には「時間泥棒」と呼ばれる灰色の紳士たちが登場する。彼らは人々に「時間を節約して貯金すれば、後で利子をつけて返してあげる」と誘惑する。そうして人々はより速く働き、急いで生活し、時間を節約し始める。
だが逆説的に、人々が時間を節約しようと急げば急ぐほど、生活から余裕や笑いは消え、時間はますます速く失われていく。重要なメッセージは「時間は人生であり、人生は心の中にある」ということだ。急ぐ行為自体が、むしろ人生の本質である「現在」を奪ってしまう。
道路清掃員ベポがモモに語った言葉は、時間に追われる現代人への重要な助言だと言える。
「一度に道全体を考えてはいけない、わかったか?次に踏み出す一歩、次に休む呼吸、次にする掃き仕事だけを考えなさい。常にその次のことだけを考えていれば、楽しく仕事ができ、心の平安を得られる。それが大事なんだ」
ゆっくり歩くことは、人生に余裕を持つことに等しい。余裕のない人生は生きているとは言えないという言葉が実感として迫る。われわれは何のためにそんなに急いで走っているのか。急いで向かっているその先には何があるのか。
考えてみれば、人生はたんなる過程にすぎない。人生の豊かさのためには、急いで走るよりも一歩ずつゆっくり歩くことのほうが、その体験をより豊かに味わう道だろう。
ゆっくり歩き、遅い足取りで村の道を行けば、咲き誇る花々と長く目を合わせる。あの花の一生と私たちの一生は、同じようなものだろう。急がずにゆとりのある一日だ。
深まる春が満ちている。
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